日本脇道紀行1

岡山県の茅葺き民家中心にしたいのですが、岡山県はほとんどモノクロで撮影しています。私はモノクロがベースですから色付き写真は余り得意ではありません。中国地方、近畿地方の茅葺き民家を中心に投稿します。生活感のある写真を主にお送りします。 写真の民家は奥出雲、島根県は旧国名の出雲には沢山茅葺き民家がありましたが石見は余りありません。石州瓦の本場だから瓦葺きに替わるのでしょうか。
この民家の入り口には木の橋がある、これと茅葺き民家を入れると写真にメリハリがなくなるので橋は捨てて道と茅葺き民家に絞り撮影した。 表札が無く近所で苗字を確認したらお爺さんの言うのは「ツハラ」に聞こえた。どんな字をかくのですかと聞いたら「千原」であった。出雲はご存知の通り「ズーズー弁」系統の言葉ある。松本清張さんの小説「砂の器」は出雲の言葉の特異性をヒントにしたものである。 この舞台の亀嵩駅は程近い。


民家の撮影は曇り空か小雨の日がよい。
天気の良い日は陰影がついて陰の部分がつぶれてしまう。
夏場の陽射しの強い日は出かけてもろくな写真が撮れない。私も随分駄作の山をきづいてきた。改めて自分の写真を見ると98パーセントは駄作である。 本当に上手い人はなんでもかんでも撮影しない。フィルムも駄作はどんどん捨てる。貧乏性の私はそんな事は出来ない。駄作の山を残している。 この日もどんよりと曇っていて三脚を使って撮影した。 日田地方特有の杉皮葺きである。熊本の小国町、福岡の浮羽町あたりまでが杉皮葺きである。杉皮葺きは黒いので露出補正をマイナス側に何段変えて撮影しないと屋根が露出オーバーで飛んでしまう。


この風景を見て弥生時代はこんなところに住んでいたのであろうと想像する。 山の頂上付近の窪地にわずかに広がる田畑である。こんなところになぜ人は住むのかと山間地を走りながら思う事がある。洪積地の平らなところに住めばよいと思うが、昔は洪積地は毎年何度となく洪水に流され作物も住居も失うおそれがあった。潮が川の上流にまで満潮時には押し寄せるので作物を作る環境では無かった。葦原が多く木も生えていなかったので燃料の確保、水の確保に困ったと思われる。
その点、人口の少なかった時代には山間部の窪地での生活が環境として最適であったと思われる、(燃料の確保、住居の柱材の確保、水、山の幸)、人口が多くなり人は平野に進出してきた。護岸や土手の工事で人が住める環境に整備きた。 大阪も万葉の時代には泥の海として詠まれている。大阪の中心地、梅田は埋田が転じたものと言われている。


美山町は超有名地でだれしも一度は訪れた地、新鮮味は少ないが撮影した数が多いので紹介しないわけにはいかない。 風景は時期と時間によって光線が作り出すさまざまな姿をみせる。 午後から撮影しても平面的な写真になる夏場はコントラストが強く写真にならない。



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