福井県

現在では、今庄の板取宿、名田庄村周辺の民家、つのや造りの坪川家を思い出す。
古い民家は内部の柱に比べて側廻りの柱高が低いのが通例だが、福井県中部から富山にかけての古民家は、上部が股状になった柱を使い側廻りの桁と内部の高位置の桁を一本の柱で受ける独特の工法を取っている。これをマタ造り、その柱をマタ柱、ドウショウ柱とも呼ぶ。今でもこの工法を見れるのは、丸岡町竹田の坪川家〔千古の家〕です。個人的には、鳥が口を開いた様な坪川家のつのやが印象的だった。2006年の夏に茅の総葺き替えが終わった。
L字やT字型をした通称、越前のツノヤと呼ばれる造りは、棟を高くせずに部屋数を増やす事が出来る。越後の中門造りと外観は違うが、機能面においては似た点がある。また北陸型と言われる妻入形式の民家は中柱を中心とする一種の傘建てで、前半部をオイエと呼ぶ板の間の作業部屋とし、背後に2部屋の住居部を設ける3室間取りを原型とする。

石川県

まず白山山麓白峰村の出作りの民家、僅かな敷地に建つ民家、春から秋にかけて通う人と一年を通してその土地に住む永久出作りがある。現在では見る事は出来ないと思うが、白山市の石川県立白山ろく民族資料館に、長坂家、表家、尾田家が移築されれいる。
標高750mの山あいに建てられた白山ろくの焼畑農業を代表する大型永久出作り農家の長坂家。大自然に順応した構造と出作りの生業に則した知恵は、学術的にも重要な文化遺産とされている。豪雪地帯の山形県朝日村の多層民家に見られるようなハッポーに似た高窓〔猫窓〕が付く。
また、お坊さん専用の入り口があり、信仰心の深さと、こんな山奥まで良く来てくださったと言う感謝の気持ちもあったとされている。職人に頼らず大部分を家族で建てたのが白峰の出作りの民家です。能登の平家一門、大納言時忠の子、時国が、300石の地を譲り受け時国を姓として、この地に居を構えて以来、代々豪族として栄え、今日に至ったとされる、上時国家、下時国家は庶民の住む民家とは格の違いを感じる。能登周辺には妻入り、入母屋の民家が多く感じた。

富山県

五箇山地方はその名の通り、山中の五つの集落からなり、豪雪地帯です。この地方の合掌造りも、ここの風土から生まれた。その成因として、
〔1〕降雪量の多い風土に適応させる。
〔2〕養蚕をする。
〔3〕床と土間を広くして多用途に使う。の三点があげられる。
この雪に対する利便としてはさらに次の2点がある。1つは積雪は少なくても2、3m多い時には5、6mにもなり、屋根の雪下ろしが大変なため、屋根に60度の急勾配をつけて、雪堀にした雪を捨てやすくしたことと、その2は、積雪の多い時には、2階や3階の窓から出入り出来る事です。合掌造で、平入りの場合、大戸口の前に津軽の民家同様に庇が取り付けてある場合がある。妻入りの場合でも同じ目的で庇を付けている。これが大屋根と一体になり入母屋風に見える。
五箇山の茅は厚く葺いてある。これは、雪に強く、断熱性に優れているからです。 五箇山では、炉縁〔囲炉裏〕の4隅から4本の太い木を横たえて炉の中央で突合せて燃やす。これが、大変暖かい!余談ですが、薪はお互いの炎を共有しあって燃える。しかし2本では燃えない。必ず3本以上の薪でなければ炎にならない。炎の調節は薪を囲炉裏の中央の出し入れすれば良い。また火の点け方や消し方にも伝統的な作法があった。寒冷地では、大きな火を焚くため囲炉裏の上に火棚があるのが一般的で、雪国の暖房設備の中心でした。

岐阜県

飛騨地方も、越中五箇山に隣接した山地で豪雪地帯です。
特に白川郷は、五箇山と似た合掌造りで、雪に対して備えている。
大家族制度と合掌造りで有名な白川郷の民家は伊勢神宮、出雲大社、住吉大社などの古い神社建築と結びつけて考えられる様な原始的な住居ではなく、急勾配の切妻屋根にして、2階・3階と屋根裏を利用したのは養蚕のための工夫であったと言われている。また、耕地面積が狭く、土地を親族兄弟に分け与える事が出来ないために、大家族で1軒の家に住むようになったと本で読んだことがある。現地を訪ねた方は、理解出来ると思う。

愛知県・静岡県

釜屋造りの民家「釜屋建とも言う」三河の東を流れる豊川の流域にも、九州の熊本県や鹿児島県などに見られるような、主屋と炊事場である土間を別棟として、その間に樋を通して連絡し、2棟を1つの建物の様に使っていた。土地の人達は、この別棟を釜屋と呼んでいる。望月家「重文」の場合。
釜屋建て形式の民家の建築様式は、豊川流域と天竜川下流域のみに見られる、非常に珍しい建築様式である。新城市黒田の望月家(もちづきけ)住宅はその原型をよくとどめているとして、1974年(昭和49)国の重要文化財に指定された。建物は主屋(おもや)と釜屋(かまや)がT字形に直交するように左右に建てられている。釜屋に入ると右側に馬屋があり、左側に風呂場がある。奥は「奥にわ」と呼ばれ土間になっており、夜なべ仕事や冬期・雨天時の仕事場であった。主屋は田の字形の間取りで、「おでい」・「おえ」・「へや」・「だいどこ」の四つの部屋がある。
「おでい」は座敷、「おえ」は居間で、「へや」は寝室、「だいどこ」は現在の食堂に当たる。どの部屋のも押し入れはなく縁側も付いていない。鈴木家住宅「県指定建造物」江戸時代間取りは四間間取りとなっています。浜名湖北岸から東三河にかけて分布していた分棟形式の釜屋造りです。屋根を別棟にする形は、地方色の濃い特異な形です。神奈川県境の小山町では寄棟造りの直屋の民家が多かった。鈴木家住宅「県指定建造物」江戸時代間取りは四間間取りとなっています。浜名湖北岸から東三河にかけて分布していた分棟形式の釜屋造りです。屋根を別棟にする形は、地方色の濃い特異な形です。神奈川県境の小山町では寄棟造りの直屋の民家が多かった。

山梨県

享保以降の養蚕の隆盛は各地の民家の形に大きな影響を与えた。
屋根裏を飼育場とすることから、そこに光と風を通す窓の必要だ生じたからです。
その目的のために、それぞれの風土に応じて様々な工夫が凝らされたが岳麓地方〔忍野村周辺〕では、妻を半切妻型の兜造りとすることで問題点を解決した。
それには、ツブシ屋根と呼んでいた寄せ棟の妻を改造した破風造りと切破風造りという切妻造りに窓と庇をつけた2つの形式がある。突き上げ屋根〔切破風造り〕 甲府盆地とその周辺には、切破風造りと呼ぶ茅葺き切妻が顕著で有ったが、幕末より隆盛となった、養蚕業の適応するために新しい民家形式が生み出された。煙出櫓が大きく発達したと見られているものに、突き上げ2階があり、またの呼び名をやぐら造りと呼ぶ。塩山市、甘草屋敷〔高野家〕甘草は、は徳川家光の頃、中国より舶来された薬草で、高野家は代々その栽培を家業とした。吉宗の時代より幕府と藩の保護を受けその関係から役人の接待のために座敷を必要とし享保年間に建築された。昭和28年重文に指定された。
100畳敷きの大家で玄関には式台を構え座敷は5寸上がりの上段構えの書院形式で内縁外縁を構える。屋根は2段煙出し付きの切り破風造りで、葡萄畑の中に浮かぶ大切妻のやぐら造りの家は座敷、小屋裏の柱は各階を貫通して、棟木に達している。栗の股木の大黒柱が3階の床を支える様は有名です。また小菅村にある二重かぶと造りも養蚕業に適応する民家形式です。

長野県

白馬山麓には、越後風の本グシを置いた寄棟前面切り落とし造りで階上は養蚕に使った。
広間型の間取りで、土間の奥に炉を切った勝手があり、下に厩、トイレが並ぶ。
勝手の式台には小畳を敷いて客座とし、2階に通じる箱段の下は勝手側から戸棚として使う。
家内ですべての用が足せる間取りで、豪雪地帯の民家の有り方を示すものです。また秋山郷の民家は新潟県上越の民家に似ている。主屋から切り妻の小屋根を出す工法は東北の豪雪地帯にも多く見られる。建てぐるみ 主屋の一部に土蔵を入れ1つの屋根で覆う形式で、諏訪湖東の平地に多くみられ、山陰、東北、多雪地にもみられ、建てぐるみや屋ぐるみ等と呼ばれている。また蔵自体ををウチグラ、トリコミグラと呼ぶ。
雀踊り 板葺きの屋根では、けらば〔鬼瓦の部分〕が風に吹き飛ばされないように破風板に添えてもう一枚セキ板を重ねる。棟押さえの小口を隠すためにこのセキ板を延長して交又させ棟端飾りとする事を雀踊りと呼んだのが始まりとされる。☆井籠倉〔せいろうぐら〕 厚板を井桁に組み重ねた無柱式の構造の構造で、主屋に隣接する時はこれに木釘を打ち縄を絡んで、土壁を塗る。後には、柱を建て刻んだ溝に厚板を差し込む、落し倉が出来た。新潟と隣接する飯山地方が豪雪地帯として知られている。この地方でも、新潟県と同系の厩中門がつくられた。これらの中門造りや直屋の家も大戸口には津軽のシラシと同様な庇が付いている。

新潟県

佐渡や日本海側の平野部を除いては深雪地です。
これらの深雪地では、風雪に備えて秋田、山形、福島各県と同じ様に厩中門にした家が多い。
これを越後ではチョウモンと呼び、山形県と同じです。同県の中門は種類が多く大別すると次の通りになる。中門のある位置から分けると、表中門と裏中門がある。表中門は本屋の表にあるもので、前中門とも言う。裏中門は本屋の裏にあり後中門あるいは単に中門と呼ぶ。さらにこれらの造りに機能を加えると表中門には、厩中門、玄関中門・座敷中門があり、裏中門には、座敷中門と寝室中門、水屋中門などに分類できる。雪に備えたものとしては、表中門といわれている。新潟県教育委員会の報告書「越後の民家」によれば、中門の発生は、17世紀の前半と言われ、18世紀の前半以前には発達していたとされる。また平地に近い小千谷、十日町に比べ秘境とされる秋山郷の方が中門造りが後から導入されている。また古くは上層の家が早く、下層に家は幕末になってからつくられた。
これには、家の格式と経済力の問題があったと思われる。表中門の発生については、網谷りょういち氏の「安永9年造立のじょうや造り」と言う論書がある。玄関中門は馬の飼育をしなくなり、厩が不要になり、玄関専用に改造したために増えたと言う。また北部の県境の山北町の民家は庄内地方のケイジとハッポウの付いた、朝日村の民家と同じ系統の民家が残る。
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