茅葺き屋根に住む人2

夢想庵さんの梯子及び梯子掛けの写真
細かなところまで観察するものです。
木工製品に特別な思いがあるからすぐに目に入るのでしょうね。 各農家を訪問されるからいろいろな物に出会うのでしょう。 健康で体力に自信のある人はゴルフやテニス、登山、海外旅行を楽しむものです。私と同年代を見ても文化的な物は年寄ってからやればよいと考えている人が多い。
体にハンディのある私は健康な人が気付かないものに目を向け、感性を磨き個性にするしかないのです。 自分なりのキャッチフレーズを考えてみました。 「足が悪けりゃあ口がある。動けなければ知恵をだせ。立ってる者は皆使え、女房、子供、犬(他人)まで」 これでどうでしょうか。
写真、茅葺き民家の奥さんを素晴らしい木製ハンガーと一緒に撮影


今年は子年で十二支の最初の年でもあります。
干支について書いてみました。
干支は十干と十二支を組み合わせた暦です。 組み合わせは10と12の最小公倍数で60通りがあります。一回りするのに六十年かかります。 暦が再びかえるので還暦とよばれています。 60歳を還暦と呼ぶのもそれにちなんでいます。 十二支は誰でも言えますが十干は我々の年代でも難しいところです。 十干は生活のとりまく物質「木、火、土、金、水」の五つに兄(え)弟(と)を付けて10組作ります。 つまり「きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ」という風に この言葉に甲、乙、丙、丁、戊(ぼう)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、葵(き)を当てます。 つまり甲(きのえ)、乙(きのと)というように この十干と十二支とを組み合わせると一番目は甲と子です。ここまで書くと関西の人は誰でも知っている甲子園球場の由来です。 甲子園球場は「きのえのね年」に出来たからこの名がつきました。84年前です。 十二支は時刻や方位もあらわします。子午線はネズミ(北)と馬(南)結ぶ線として日付変更線をそう呼んでいます。 干支で有名なのは丙午(ひのえうま)でしょうか八百屋お七が恋に狂い放火による大火事で江戸を消失させたことから丙午の女は産んではいけない伝説ができました。

干支は茅葺き民家には関係ない事と思われますが民間信仰(庚申など)や方位を知るためには干支のことも必要でしようか。 余談 甲子があるのだから乙子はなに 乙子は「おとご」弟、末の男の子の事です。昔はこの子は「おとご」とか「おとんぼ」とか言っていました。おとごは旧暦の12月をさします。岡山市の芳井川の河口に乙子の地名があります。


お婆さんが三人、茅葺き民家の前に座りこんで話し込んだいたのでカメラを三台首に下げて降りたら話は打ち切り逃げられました。コンパクトカメラをポケットに近寄るべきだった。
話は三人がよく盛り上がる。ちゃんと役割が決まるのである。しゃべりまくり役と聞き役、聞き役と時々しゃべりをいれる役で成り立つ。しゃべり役は常に情報入手の努力を怠らない、人の失敗話は大好き。人を聞く気にさせる話術も誇張(ホラ)も心得ている。聞き役は冷静である、しゃべりの話の矛盾を細かくチェックしながら相槌をうつ、心の中でアホと思っても外交辞令の笑顔絶やさず 。これがしゃべりが二人で聞き役ひとりでは話が噛みあわないのである。

男の話は「さ・し・す・せ・そ」と言われている。つまり「酒か魚釣り、仕事に趣味、スポーツかスケベな話、政治かセックス(下世話な話)、そろばん(経済) 」をしておけば事足りると言うものである。 女の話となると「かきくけこ」でしょう。 か:家族、家庭、カルチャー、カラオケ、き:着物(ファッション)、く:グルメ、クッキング、け:化粧、こ:子供の話、コミュニケーション 昔は女の作法は「さしすせそ」と言われたものだが 今となっては男のエゴで生まれた言葉であろう。
私は茅葺き民家の撮影に訪れたときに話す話題は「まちこみさせて」を合言葉にしている。 ま:祭り(行事)、ち:地形、地理、こ:言葉(方言、地方特有の言葉)、み:見所(歴史的、観光的)、さ:産業、産物、作物、せ:生活(習俗)、て:天候気候

「まちこ」って誰、君の名の真知子さん(古い)、渡辺真知子それとも長谷川町子?


我々の撮影旅行は民家を訪れるので「見る」事と「聞く」事から得られるものが大変多い。
聞くことは簡単なようでなかなか難しい。
民家を訪れての会話は世間話や雑談であって地元の方が長年話して来た口調やペースで行われのでビジネスの様に結論を先に述べて解説を加える簡潔な会話ではない。

私は旅を急ぐ余り聞きたい事だけを聞き会話を切り上げる事が多い。 私は家内と一緒に旅をする事が多く、最初は私と話しているのにそのうちに家内の方を向いて話すのである。(住人が家内との会話でカメラを気にしないので私には好都合なのだが) 家内は茅葺き民家など全く興味を示さないが土地の人々が淡々と話すのが面白いと言ってただひたすら耳を傾けているだけであるが相手の人は聞きもしない家庭の話を始めるのである。 私はその時に思った。話を聞くとは「話す人を心地よく話し易くしてあげる」事ではないかと思った。 話の腰を折ったり、質問攻めにしたり、自分が話しの主導権をとり講釈を始めたりしない事である。車の運転でたとえると快適に運転しているのに頻繁に割り込まれたり後ろから車間距離をとらず迫られたり、前車の速度にムラや蛇行があるとイライラする。会話も相手に気持ちよく話してもらう配慮がいるように思った。 たとへ自分が知っている事を話しても「そんな知っている。そこは何回も行った」などと言うと相手は意気消沈して話す意欲を失う。 あるお寺の高僧のところへ客が来た、見るからに論の立ちそうな教育関係者であった。高僧はお茶を出すのに急須に湯を注いだ。急須から湯が溢れるまで注いでも止めなかった。お客は急須から溢れていますと言った時に「この急須は貴方の頭と同じで満杯です、人の話を聞くときは空っぽにして来なさい」と高僧は語った。

聞くことから何が得られるか1.土地の生活習慣、食べ物、動植物なと知らない事を教えてもらう。2.会話の中にいろいろ調査や探求するヒントや疑問を発してくれる。 会話のなかで得られるの後者のほうであろう「ヒントや疑問」引き出すのは自分の感性であろう。

話を聞くときは頭を空っぽにする、相手が話し易いようにしてあげる。これからの旅は急ぐ必要のない旅である。これをひとつでも実践できる旅としたい。


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