軒下と縁側

長く突き出た屋根の軒下の空間や、その内側に設けられた縁側やぬれ縁を様々な目的に使うことは、日本の住宅様式の大きな特色です。
縁側が日本で最初に発展を見たのは、平安時代の貴族住宅や寺社建築と言われている。その後の貴族住宅には、桂離宮にみるように、葺き放しで板張り床〔ぬれ縁〕、雨戸で囲って畳敷きにしたものを〔畳縁〕、葺き放しで土間のものを〔土庇「どびさし」〕など、が使われる。農家においても軒下や縁側は生活するにおいて、大きな役割をはたしてきたが、その形式や発達程度は地域、気候風土により大きく異なる。南の温暖な地域では、早くから軒下や縁側が利用されたのに対して、寒冷地では、その発達が遅れた。南の地域の農家では、小規模な家でも家の裏側に土庇や縁側をつけていて、これらは夏の太陽の光を遮るために必要とされたと考えられる。

一方、寒冷地では冬の寒い時期でも、軒下や縁側は暖かい陽だまりの場所として、仕事場や、親しい客との語らいの、格好の場所だった。そのために軒を長く出す工夫がされ、また居室の表側の縁側を設ける事が、時代が進むにつれて普及していった。 関東周辺の農家の縁側の変懇を書いてみよう。一番古いと言われる形式は、居間の戸口に板戸や障子を立てて、その外側には縁を張らずに土庇にする。この様な場合の土庇は、穀物を乾燥させたり、農作業を主に利用された。腰掛が必要な時は縁台〔約1畳の大きさの板張りの腰掛〕を置いて縁側の代わりにしていた。江戸中期まではこの様な状態の民家形態で、その後の板張りの縁側へと発展した。

しかしこの場合も雨戸は縁側の内側に引いており、縁側は風雨にさらされる、ぬれ縁形式だった。そしてようやく幕末から明治にかけて、雨戸を縁側の外に引く形式が普及したという。また間取からみると、縁側は最初は客間の外側のつけられ、次に居間の外側に、そして最後に家の裏側の納戸の外側にもつけられるようになる。この様な縁側の発達は、家の中に廊下を持たない農家の間取りでは大きな便宜を与えたとされる。農家での縁側の発達が、かなり長い年月をかけて発達し完成されたのは、縁側が住宅面積の中で大きな割合を占め、そのために経済的にある程度の余裕が必要としたからではないか?現在の住宅も和室の外側に縁側をつける家はそこそこの規模〔坪数〕に成るはずです。北国の農家では軒下や、縁側の発達は気候条件により、かなり妨げらたという。

青森県の黒石市や弘前市で見られるように、町家の先に連続した庇〔こみせ〕が風雪除けに取り付けられた。雪国の農家は例外もあるが、茅葺きの軒先の出が小さく、土庇を用いないものが多い。それらは、雪の重みに耐えるためのものであろう。人が頻繁に出入りする戸口には、屋根から落ちてくる雪魂をさけたり雪が吹き込むのを防ぐために、小屋根「あまや」や特別な囲いが作られた。その他、縁側を作る時も、積雪が雨戸の間から溶けて流れ込まない様に、雨戸の内側に土間の縁側を設ける様な形式もある。茅葺きも民家の縁側での作業やお茶を飲む姿など最近では中々みれなくなった。農村でも見受けられるのは,ディケァや訪問介護の車ばかりです。茅葺の民家=過疎、高齢化、独居老人、こんな日本に誰がした! 2007年は茅葺きと老人をテーマに散策してみようかと考えている。
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