鳥取県

私が散策したのは、日南市と智頭町がメインだった。
長谷のの○○家に着いたのは夏の暑い日だった。奥さんに断り写真を撮らせていただいたが、中二階の様な造りで、養蚕部屋に使っていたのですか?と尋ねたら、嫁に来た時から部屋として使っていたとの事だったが、養蚕部屋として使われていた様な気がした。
日南市は鳥取県、岡山・広島・島根各県と県境を接する地点で、この山間の民家は、間取り・構造とも基本的には鳥取周辺の民家と変わらず、入側の柱は側から半間のところに立ち、背面は全部壁で閉ざされて、出入り口を作らず、広間の前面に入側縁がつく。また厩が広く取られた家も多いが、小牛を沢山飼育したらしい。壁は大壁が普通であるため外から柱が見えず、外観が変わってくる。また建築年代が少し後になると、土台をまわしている家が多くなる。入側柱をつなぐ桁行梁の上に登り梁をかけずに、その下をくぐって棟通りの桁行梁へかけられる。少し変わった小屋組です。

島根県

出雲地方の反り棟の民家と赤瓦そして散居村の築地松について書いてみる。反り棟は元々寄棟の民家で茅手さんが、棟仕舞の時に両端をせり上げて仕上げた事からこの形が定着したと言う説がある。棟の左右両端が天を突くように反り上がり、見るものを圧倒する。
兵庫、岡山県のオドシ〔カラスオドシ〕の着いた民家の様に始めて見た時のインパクトは強力だった。島根県といっても、出雲、石見、壱岐と地方ごとに民家の形態が変わってくる。しかしどの地域でも、石州の赤瓦HPが目に付く。江津市周辺で幕末頃に始まったとされるが、赤土に出雲の来待石「キマチイシ」の粉を混ぜて焼くので、赤く仕上がると言う。出雲地方の下流の平野は、中国山脈と島根半島の山に挟まれ、日本海側から強い西風が吹き込む所です。しかもここの農家は散居村のため屋敷の周囲、特に北側と西側に黒松を植え込んである。この松を築地松「ツイジマツ」と言う。
これは、明治時代になってからの事で、それ以前はマテバシイや竹、タブなどの混栽だった。当地では「築地松の手入れの良し悪しで嫁が決まる!」と言われるほど築地松を重視している。また農家にとっては唯一の燃料源でもあった。

岡山県

倉敷市新川町、運河に沿う古い町の一角は、倉敷の名の通り、張瓦「なまこ壁」と白壁の倉屋敷が軒を連ね瀬戸内一帯の物資を集散したと言う。
旧大原邸の母屋は本瓦葺屋根、白壁、倉敷窓、倉敷格子で、200年前そのままに現存していて国の重要文化財に指定されている。旧大原家は運河の終端にあり天保年間〔1830年〕の建築です。本葺重層切妻屋根の蔵造りで、倉敷窓を連ねる階上に腰羽目と隅柱を付けているのは、時代の新しさを示すものとされる。一見、入母屋造りに見えるが、これは妻側の壁を保護するために、取り付けた庇で付屋根と呼び一部階級のみに許された格式です。
公用室と私用室が2列に縦につらなり、別に座敷が2棟突き出し、北西を土蔵群で囲う。店と土間は倉敷格子、内に摺り上げ障子を持ち商品の出し入れには随時全開できる仕組みに成っている。HPでお世話に成っている方の紹介で、美咲町の村上家にも訪問した。私がお邪魔したの時は、全盛期のメワラのカラスオドシは相当に傷みが来ていたが、盛時にはプロ、アマを問わず三脚を立てたカメラマンが並んだと話していた。古い家の間取は土間沿いに広間を取った3間取だが、広間の背面に押入れを取り、納戸は以外に狭い。

広島県

広島県は東広島市を中心に散策した。寄棟造りで赤瓦で棟を取った凛とした民家が印象に残った。広島市にはHPでリンク頂いているルナルナさんがお住まいです。民家に対する情熱とその見識の広さには敬服しますし、日頃よりご指導いただいています。
この県は、広島付近の農家はいかにも綺麗だ。真宗の信仰が盛んで、また海外に雄飛する人達が多いのだが、その人たちが郷里に帰ってきて、住み心地の良い家を建てるからなのだそうだ。土も花岡石なので、田んぼから帰ってきて足を洗わずに家に上がっても汚れない様な綺麗さだ。農具を働かするにもいたって扱いやすい所だと言われている。
家の造り方はの特徴は、納屋と主屋との間に大きな庇をつけて、主屋の土間の出口から、直接納屋へ通るようになっている。その庇の所に中門を設けて、車、その他の荷物を庇まで引き入れて戸締りが出来るように成っているのも具合が良い。納屋を綺麗にセメントの叩きにしている家もある。納屋と接して牛小屋を作っている。そして牛の踏み肥を小屋裏からかき出す様になっている。今先生が描いた、「安芸佐伯郡の農家」のイラストを見ていると模型に作りたくなってくる。

山口県

津和野の民家 津和野は山口から松江に抜ける山陰道が、津和野川を渡るあたりを中心にひらけた静かな町で、4万3千石を領した、亀井氏の城下町です。津和野城は防塁が昔を語るばかりだが、もとは藩校だった養老館が、資料館として残る。古い民家も多く、雪止めをつけた瓦屋根の商家もみられるが、津和野出身の文豪森鴎外や思想家西周の生家が復元、保存されている。
山口県萩市の武家屋敷 萩は城下町です。400年近く前の城を中心とした町づくりの跡が今も色濃く残る町です。江戸藩邸から移築したと言う、なまこ壁の武家門、土塀と石垣をめぐらした長屋、土塀に囲まれた武家屋敷跡などが見学できる。山口県の民家は蔵田周忠氏などが、「両国型」と呼んでいるように、山陽、山陰に共通した、外見も間取りも整然としたものが多い。ナガヤと呼ばれる別棟の納屋をもち、母屋との間に屋根をかけた形もある。山口県の徳地町や伊佐町など散策したが、入母屋の茅葺の民家が多く感じた。重源の郷では移築民家が状態良く管理されていたが、カラスオドシの強力?な棟仕舞を思い出す。

徳島県

徳島県は租谷の散策から始まった。香川県から高校野球のやまびこ打線で有名になった、池田町を通りい租谷に向ったが、道中の険しい谷間を走り谷に向こうに家が見えるが、どうすれば谷向かいの民家にたどり着けるのか?思い悩んだ経験がある。平家の落人伝説がある租谷、数軒の寄棟の民家と保存民家を散策したが、耕地面積の少ない租谷での生活の厳しさは、石川県の白峰の出作りの民家の厳しい環境とダブって見えた。
小さめのジャガイモが保存食だとか・・・北陸に比べ雪こそ少ないが生活環境は厳しい。やはり過疎、高齢化が進む地域です。

香川県

香川県は私の住むいわき市とほぼ同じ位の面積の四国の玄関口の小さな県です。漫画に描かれる様なおむすび山の様な可愛らしい山が印象的だった。この県も茅葺き民家の残存率は、非常に少ない。四国村には四国の民家を移築、保存しているが、高松で今、人の住む民家を探すのは至難の業の様に思う。2002年頃までは何とか見つけられたが、数年前の台風の影響で私が写真に収めた民家達も被害を受け解体されたようだ。高松市内にも、茅葺の民家が見られるが、2006年7月時点では人の住まない民家になっていた。高松も高知県同様に、茅葺民家の情報が欲しい県です。

愛媛県

愛媛も松山周辺と南の宇和島地方とでは趣が変わってくる。
松山周辺の代表的な民家は、真四角な敷地で、関西地方の一般的な民家と同じ様に、周囲に建物を置き、土塀を築き中庭を造っている。屋根は一般的に瓦葺きが多い。使い水は用水を引いて、そこに洗い場を作った。松山付近の人情は、讃岐や土佐の人達と比べて極く温和である。としているが、「今和次郎 日本の民家より」現在ではどうだろうか?「会津の三泣き」という言葉がある。会津に入るとき会津人の排他性に泣かされ、会津に住むとき会津人の頑固さに泣かされるが、会津を出るとき、会津人の人情が忘れがたく3度目に泣く。
今では、死語に成りつつあります。2006年7月の訪問時は、八幡浜から愛媛県に入り、道路脇の茶道に目が止まり、霊場の雰囲気をあじわう。寄棟造りの民家の解体作業中だったがこの地域でも否応なしに民家達が消えていく。川内町大平地区の四方蓋造りの民家達は今も残るのだろうか?四国は以外に茅葺き民家の残存率は少ない。時間をかけて散策したいと願うばかりです。

高知県

未だに茅葺模型の制作が出来ないでいる県です。
誰か良い題材が有る時は教えて下さい、お願いします。
高知県も2度程散策したが、自分との相性の良い民家と出会えないで居るのです。高知県の民家は平野部の農家では、一般に屋敷構えが大きく、表門を入ると、母屋のまわりに物置や風呂場、納屋、白壁造りの土蔵が並び、広い内庭がある。しかし、山村では、屋敷も狭く、土間のない民家さえ見れらた。漁村でも同様で、普通の民家に比べ、軒が低いのは、台風に対する考慮からではないのか・・・・石垣や防風林に囲まれて屋根がやっと見える状態の家もある。屋根の形は茅葺きでは寄棟造り、瓦葺きでは、切妻造りの屋根が多い。
「仏頂造り・ブッチョウツクリ」と「水切り」について書いてみる。高知県の安芸郡や室戸市などの街道筋にはこのあたりで、仏頂造りと呼んでいる民家が残っている。床の間の表面に上部は庇の鍵にかけて開き、下部は降ろし縁として開く仕掛けで、商品などを並べる事ができる。また高知平野の街道筋に面した町家や屋敷構えの大きな農家などでは、この地方で「水切り」と言う雨を避けるための小庇をいく段にもつけた白壁造りの土蔵や住居が見られる。
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