長崎県

長崎県も茅葺の民家の残存率は少ない、その昔〔昭和50年代〕までは、資料などで、見る事ができるが現在では、トタンを被った民家を見つけるのも、難しい。辛うじて、諫早の保存民家が残るが、中里町の旧本田家などは、残念ながら、管理の悪さが目立つ。
今では、長崎県にしか残らないであろう庇が茅で葺き下ろしてある民家だが、私が訪問した2006年7月時点では、荒れ寺の様な状態だった。文化財がこんな形で朽ちていくのも非常に悲しく残念なものです。 長崎は坂道の多い街で、美味しいチャンポンを食べ、カステラの有名店でお土産用のカステラを注文したが、そこは街中で交番が目の前でドキドキものだった。長崎県はトタンで覆われた民家を見る事さえ難しかったが、単に私が散策した所が民家の少ない場所だったのかも知れない。

福岡県

平川家住宅( うきは市浮羽町大字田籠)浮羽町の中心地からから前津江村に通じる県道106号線を約20分南下した地区に300余年前(江戸時代中期)に建てられら平川家住宅がある。この住宅は「くど造り」という造りで母屋と土間を「コの字」型につなぎ、さらに納屋まで続く分棟型家屋である。住宅部2棟に堆肥小屋・馬屋が一体となっており「くど造り」としては規模が大きく部屋は御前型である。広い居間には「いもがま」も残っているし「大くど」も据えられてたままで、座敷は8畳でトコを持ち大きな平等院をつけるが、これは大正前後に付けられた物のようだ。建築当時はトコだけだった。
天井は座敷だけ棹縁天井で御前は丸竹天井、台所と納戸は根太天井で中二階となっている。なお、風呂場も初期のまま残っており、洗い場は竹を並べた床になっている。竹の隙間から水が下に落ちる仕組みです。湯船は無いので当時は行水のみであったようだ。その他当家には実際にこの家で使用していた農機具や貴重な民族資料が多く保存されている。昭和46年に国指定重要文化財に住居部の2棟が指定された。左にもう一棟藁葺きの堆肥小屋(馬屋)がある。福岡県に行ったら是非訪問して、佐賀県のクド造りとの棟の取り方の違いや外見的違いなども、感じて欲しい。

続いて、今は殆ど見られなくなった、八乙女周辺のだご棟について書いてみる。それらの家々は寄棟造りで、棟端や軒端の角をピンと尖らせて刈り残してある。これは、久留米に隣接する佐賀のクド造りなどに見られる「馬の耳」[みんのす」「猫の耳」などと呼ばれる飾りとの関連を思わせる。棟止めは丸竹のスノコ巻きににしたものが多い。場合によってはこの上に茅のひとかかえも有ろうか?と思うような太く束ねて乗せた棟飾りを付けた家もある。
しかもこれは何箇所も縄で結びつけてあるり、その結び目は縄でギリギリと巻いて角の様にしている。草屋根の棟止めには深い興味を持って注意を払ってきたが、これ程、堂々として、豪快なものに巡り合ったのは初めてだ。久留米餅の里を訪ねた上にこんな見事な棟飾りを見る事が出来ようとは思っていなかっただけに嬉しかった。と「民家巡礼」にある。この棟飾りは、土地の人達はダゴ棟と呼んでいる。ダゴとは、団子の意味だと言う。昔はどの家でも、このダゴを付けたそうだが材料と手間が掛かるので現在ではあまり見かけなくなった。また、棟に乗せるダゴの数は、必ずしも奇数とは限らず、場合によっては偶数の物もある。

東日本はじめ各地にある棟飾りの置千木やグシは偶数にしないと言う俗信があるが、ダゴはこれにあまり拘らないらしい。「民家巡礼」の中の「ダゴ棟の民家写真」は、さすがに鳥肌物です。私が日田市で見たダゴ棟は、今、思えば随分痩せたダゴだったなぁ~〔苦笑〕 うきは市には今も茅葺の民家は残るが、今では寄せ棟の民家が少し残るのみです。
平川家のご主人の親切が忘れられない思い出です。

宮崎県

千木の家と夜神楽日本には、自宅の内部を芸能の演じ場所として使う地域がある。宮崎県高千穂町もその1つで、ここでは12月から1月にかけて行われる「夜神楽」が農家の「おもて」と呼ばれる大きな居間で行われ、村人達は土間に集まり見物した。この神楽は新年の豊作を願う農耕儀礼と考えられ奉納前に、氏子達が神迎えをする儀式が行われた。
まず、農家の庭先に「外注連」(ソトジメ)と呼ばれる神迎えの場所をつくり、ここに迎えられた神は、さらに人々の踊りとともに家へと案内される。これを「神庭固め」と呼んだ。
那須家住宅(鶴富屋敷)【国指定重要文化財】鶴富姫と大八郎の恋物語の舞台ともなった場所だと言う。正式には那須家住宅という。建物は藤原期の寝殿造りで、椎葉の代表的な作り。この家の建立は明確な資料がないが建築技術等から約300年前と思われる。
昭和31年国の重要文化財に指定された。 椎葉の民家は「並列型民家」といい、皆同じような型式で、家屋全面に縁を横一列に設け、それに各部屋を配置した横に長い形式です。当地は、平地が 少なく傾斜をうまく利用するために考えられた知恵だという。那須家住宅(別名鶴富屋敷とも呼ぶ)は、民家としては 大きく太い材料を使用した椎葉独自の造りで寝殿造りの形態を残したものと言われる。屋根は寄棟づくりで、棟飾りとして九本の千木が組 まれている。重要文化財指定当時は茅葺きであったが、残念ながら、昭和38年より火災防止のため銅板葺きに変更している。

先輩方が残してくれた、写真集や資料を拝見していると、高千穂の置き千木には、何とも言えない温かみがある。今では、この置き千木に民家も自然な形で見る事は、難しいと思う。

熊本県

熊本は南小国、満願寺温泉周辺に散策でしたが、日田杉の産地が近いせいか?杉皮葺き?と言うか茅のとの混合葺きに見えるのだが・・・この葺き方だと茅だけの葺き方に比べ、かなりの対応年数が見込めるだろう。南小国で骨董屋を営む、民家を拝見したが、毎年の様にお金がかかる!と愚痴っぽく話してくれた、ご主人が印象的だった。散策時、田んぼの中に、茅葺の民家が浮かび上がって見えた時の感動は忘れられない。
九州では、佐賀県、福岡県、熊本県、大分県は比較的多くの民家が残る方ではないかと思う。銘木、日田杉の皮むき作業も機械化が進み、杉皮を綺麗に剥がす事が少なくなり今後益々茅葺の民家保存には悪条件となるように思うがどうだろうか?と熊本県南小国で何故か感じたのです。

大分県

大分県の散策は、熊本県は満願寺からの経由で日田市大山町から始まった。
痩せた「だご棟」の茅葺のうどん屋さんで昼食をとり、散策を再スタートし玖珠町周辺~天瀬町~九重町と散策したが、寄棟で凛とした民家達と出会えた。日田杉の産地だけあって棟仕舞もふんだんに杉皮を使い重厚に仕上げてある家が多かった。
最近では、この杉皮を確保するのも機械化が進み何処の地域でも大変な様です。私も福島で杉皮を買い求めた事が有るが坪3000円だった。機械で剥いた杉皮は再利用を目的としていないので、使い物に成らないようです。 日田杉 ( ひたすぎ) 九州三大美林の一つ日田杉,日田地方の杉は、巨木で知られる鹿児島県屋久島の屋久杉、宮崎県日南地方の飫肥(おび)杉とならんで、九州三大美林として有名である。その林野面積は、日田市郡の約5,300ha、その95%が民有林である。日田杉の特徴は、杉挿木(さしき)苗造林で材木の成長が良く、品種は選抜固定され、やや疎植で短伐期経営である。日田地方の中心地 日田市は、 下駄(げた) 家具日田漆器など木工業がさかんである。

佐賀県

筑後川流域から有明海に広がる佐賀平野にかけての民家はクド造り、漏斗造り「漏斗谷造り」と呼ばれる独特の造りがある。クド造りとは2棟の小さな家を平行に並べ、その一端を直角にもう1つの棟でお互いに結んで凹型として三方を囲んだ屋根の造りの事で、この形が丁度、釜戸のくどに似ている事からこの呼び名が付けられたが、この地方では、クド造り造りとは呼ばず、扇谷造り、三筋造り、両谷落し等の名称で呼んだそうです。
一般にクドの口に当たる方は北側を向き、南側から見たときには、寄棟の屋根の様に見える。やや斜めから見ても曲り屋に見えるだけで、初めて裏から見た時に、クド造りの意味がわかる。この不思議な形の屋根を見た時にはある種の衝撃を覚えた。このクド造りの間取は、単純で整型または不整型の田の字の間取りか、縦に二分割し一方を土間、他方を住居部とした縦割型間取り、2棟型の間取りになっている。現在では、屋根材は葦だが、その昔は大屋根は藁で葺き上げたと言う。
この地方は豊かな稲作の産地で、年中、薪の代わりに稲藁を燃やし、大方の家の裏には燃料にする稲藁が山に積まれていたと言う。クド造りの藁屋根の棟に線が綺麗で、端が軽く反っている。棟の妻側には「馬の耳やミンノス」と呼ばれる角が付いている。この地方独特の装飾の1つです。棟止めは、殆ど半円型をした棟瓦「亀瓦」を鞍の様に乗せ四隅にある穴に竹釘で止めている。何故この様な屋根が造られる様に成ったのか?やはり台風の影響だろう。 佐賀県は武雄市、嬉野市、塩田町、鹿島市、周辺には今も多くのクド造りの民家が残る。屋根材は葦です。東北で茅〔ススキ〕で葺き上げた繊細な屋根を多く観て来た私には、観慣れない分だけ仕上がりが粗く感じた事を思い出す。

伝統的農家ーくど造り〔社団法人佐賀県建築士会〕
発生の時期 1702年[元禄15年]と1719年[享保5年]の台風以後生み出され、1828年[文政11年]子年の台風以来急激にこの屋根形式が普及し、さらにその若干後に「漏斗谷」の発生普及をみた。

地域の限定 旧鍋島藩とその支藩内に集中している。藩の奨励策が講じられた記録はない。すべては、土着農民が工人とともに工夫して、台風から身を守り、家財を守ろうとする生活の知恵が生んだものとされている。
凹字形屋根の発生の理由台風がこの様な形式の屋根を生んだと考えられる。 凹型は、直家あるいは曲が家に比較して、左右両翼の踏ん張りをつけているだけ、風圧に強い。これがさらに強化されて堅固になった形が「じょうご谷」すなわち回型の屋根の形である。

しかし、ある説には佐賀周辺や長崎本線の沿線、特に有明海に面した干拓地には木は殆ど無く、田んぼの中に家だけが建っていると言う具合で林などあまり無い。有明海に面したこの平野は筑後川大量の土砂が吐き出され干満の差が5.5Mで武雄市でも潮が来るという酷さである。江戸時代から、干拓事業が盛んだった反面、満潮時には、海水が河口から逆流してきて、稲を枯らすので、川の水は直接使えず、側溝を堀めぐらし干害に使っていた位だから、もしかすると木も育ちにくかったのかも知れないとある。この様に木の少ない筑後平野では、建築材料が極めて貴重なものであり、節約を余儀なくされた事は想像以上で、その当然の結果として棟の低い小さな家を別棟で建て並べて少しの材料で広い間取取られ、しかも丈夫な家としてクド造りが考えられたと思われる。
しかし、決して粗末な家でなく、しっかりと美しく、また、こじんまりして、有効の屋敷を使っている。こんな事から、鍋島藩主の推奨することになり広まったとも伝えられるが、クド造りは鍋島藩に限った訳ではなく、もっと広範囲に分布している。また家相学的に説く説もある。佐賀地方の武家屋敷が、昔は三谷七主義と称する特殊形式のもので、これは福の神である大黒様の住居であるとされ、これがいつしか単純化され、格式をおとして二谷五主義となって、民家に用いられる様に成ったとも言われる。また二間梁以上は作らせなかったと言う事からこうした家か考案されたとも言う。 こうした様に、民家は見る側のとらえ方により解説や論調が変わってくる。建築士会は建築士としての目線で、また、民家探訪家は土地の人の話や風習を聞きながらの解説。どちらも興味深いが私のポリシーからいけば、やはり後者の解説を支持したい。それは、この国は神話と仏教が1つ屋根の下で同居する国だからです。

鹿児島県

南西諸島の民家は住居と台所とが別々の建てられた、別棟分離型と言われる形をとっている。この形式の民家は「こしき島」が北限だったとされ、薩摩半島に来るとその二つの家が近づいて、屋根は別だが庇が殆どくっついて、内部は続き間取りになっている。この様な建築様式を二つ家と言い住居の方をイエ、台所の方をナカエと呼ぶ。さらに一体化が進むと、1つ家になり、屋根も1つになるが、その間取は明らかにイエとカナエが一体化したものと言われる。
二つ家の一体化も並列になる場合と鉤型になって、いわゆる鉤屋造りの成っている場合があり、その鉤屋も直角に曲がった物や四角の家を少しずらして並べた形のものがあり、この場合は2棟、3棟になったものが出来るのです。二階堂家住宅(にかいどうけじゅうたく)は鹿児島県肝属郡肝付町新富にある江戸時代の民家。国の重要文化財。建立は1810年(文化7年)頃と思われ、木造茅葺き屋根寄棟造り平屋の建物が2軒屋根をつなげて雁行型に連なっているように見える形式です。

これは鹿児島県でも南部の民家にのみ見られる特徴であり、客間とおぼしき「オモテ」と日常の空間である「ナカエ」の建物から構成される。武家の屋敷らしく造りがしっかりしており、保存状況が良いことから昭和50年(1975年)6月23日に重要文化財に指定された。この住宅の持ち主であった二階堂氏は鎌倉幕府の御家人発祥の薩摩国北部の豪族であったが島津氏配下となりこの地に移住させられた。最後の住人は衆議院議員であった二階堂進(1909 - 2000)である。その他、知覧の武家屋敷も散策したが、茅葺の民家と言うよりは、石垣の見事さ、管理の良さが目に付いた。

沖縄県

沖縄県は会社の旅行で訪問した。友人の小野さんからも資料を頂いたが、現在では茅屋根の家は保存民家しか残らないのでは?と思います。私が作ったのは、琉球村の外壁が珊瑚で出来た簡単な民家だった。私がお邪魔したのは、7月の暑い時期だった。首里城では暑さのため脱水気味だった事を思い出す。夏の沖縄には2度と行く気になれない。東北育ちの私は、とにかく夏の暑さには弱い。それなら寒さには強いの?寒さにも弱いのです〔笑〕
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