兵庫県

兵庫県は南は瀬戸内海、北は日本海にい臨み、そのほぼ中央を中国山地が横断していると言う複雑な地勢にふさわしく、民家も多様です。間取りは一般に4間取りの平入り形式が多いが妻入りも見られる。神戸市から東へ開いた西摂平野では、瓦葺きの入母屋が普通で、一部には大和棟〔奈良県で解説〕の民家み見られたとされる姫路市や竜野市を中心とした播磨地方も入母屋の造りが多いが、山間部に入ると茅葺の屋根に立派な棟飾り〔カラスオドシ〕をつけた家を見る事が出来る。
神戸市の北部に千年家と呼ばれる家が2棟あった。1つは、衛原の箱木家、もう1棟は上谷上の坂田家といい、大同年間この地の山地開発のために、入植した。箱木家は大同元年〔806〕3月11日、坂田家は8月13日の上棟と伝えられともに建築様式が似ていて同時代同目的のために造られた建造物として知られている。箱木家の古文書によれば平安初期の806(大同元)年に建てられたと記録にあるため"千年家"と呼ばれているが、呑吐ダム建設の際の1977(昭和52)年から2年がかりの移築の際の解体調査で、14世紀頃(鎌倉~南北朝)の我が国最古の民家である「母屋」と江戸中期に改築した「離れ」を江戸時代末期に一つの棟に収めたものであることが判明した。箱木家は衝原氏と称し藤原鎌足の末裔といわれるこの地方の土豪。
「解説」戦国時代、別所家の家臣である衝原与一左衛門藤豊は三木城で羽柴秀吉の軍勢と戦い討ち死に。三木城落城後、箱木家は衝原で代々庄屋を勤めた。、江戸末期には母屋と離れの間に2室を建てこんで一つ棟に納めていたが、移築に当って元通り母屋と離れを分離して復元再築された。一方坂田家は箱木家が農家的な趣きをとどめているのに対して幾分役宅的な所があり整っているが、多分に共通点があったとされる。箱木家とともに貴重な遺構とされていたが、昭和39年春に消失して今は無い。また播磨地方には整形4間取りの民家が多いが、戸口脇に小便所と風呂場をとる形式が多くこの造りは、隣の県の岡山の及ぶ。棟飾りは、針目覆いのメワラで芯竹を高く交差させた〔カラスオドシ〕と呼ばれる棟飾りがみられた。今ではメワラでのカラスオドシはそうは見られないようです。

京都府

京都府も北部を中心に今でも多くの茅葺の民家が残ります。
代表格が美山町北集落ですが周辺にも茅葺は点在します。急勾配の茅葺き入母屋造りに栗の棟木を組み、整った破風口の意匠が特徴的です。間取りは、整形4間取りに作業部が付属する一般的なものを基本とするが、気候が寒冷なために、台所や藁仕事をする小屋などを板張りし、温かい地方における土間部分が圧縮された形をしている。また南部では土間の中央にクドが作られるのが一般的だが、北上するにつれてクドの前に板張りの置床をしたり、台所の板の間と土間にまたがって作られる。すなわち大釜だけは土間、煮炊き用のクドは板の間と言う形式を取り、さらに進化して大釜もクドも板の間に上がってしまう。さらに北の囲炉裏地帯のの影響を受け囲炉裏を併用し、採暖も兼ねる。
美山町は現在京都府になっているが、かつては丹波の国の一部だった。丹波の国は京都と兵庫県に渡っており、京大阪とは違った文化圏でその特徴が民家造りにも現れている。これを丹波系の民家と呼んでいる。丹波系の民家の特徴は、棟木を数本のオダチ柱で支え屋根の小屋組みは又首を使わず垂木だけで支える。間取りから3つに分類される。

1、北山型 妻入り、前土間型、食い違い4間取り、後に平入りに変わる。丹波東部の山間部つまり京都府・美山町周辺に分布する。

2、北船井型 平入り、前土間型、整型4間取り。京都府船井郡、綾部、和知町などに分布する。

3、摂丹型、妻入り、通り庭「土間」型、床上部と土間が縦割り型の間取り。南丹波、中部山城つまり京都西南部、兵庫県東南部、大阪府豊能郡に分布する。摂丹高原に分布することから、この名称がついた。能勢地方にあるために能勢型とも言う。

大阪府

能勢町には今も比較的多く民家が残る。日本集落博物館にある、泉氏宅は能勢町吉野から移築した民家だが、大阪府で妻入り縦割り式の民家があるのは能勢町だけと言われているがこの形式の民家は兵庫県東部から京都府にかけて存在した。この縦割りの平面は滋賀県や福井県にも分布し、佐賀県や三重県の南部にも見られ、日本民家の1つの古形式と考えられる。その後は平入りの民家が多くなる。河内長野市にも素晴しい大和棟の民家が今も残る。
茨木市奈良町は今も周囲の景観とは別世界の地区がある。そこにある平入りの手入れの行き届いた茅葺の民家が、印象的だった。

奈良県

奈良県は吉野川以南の吉野山地と奈良盆地、大和高原の三地帯に分けられるので、民家も3つの形が見られた。吉野山地では傾斜地に石垣を築いて奥行きの浅い敷地に母屋はもとより付属建物まで1列に並べた形が多く、吉野川以北の稲作の盛んな平野部では、カドと呼ばれる前庭を取り囲むように建物を配置した、「囲い造り」と呼ばれる造りが見られ、大和高原には、母屋を中心に片側または両側にコナシベヤなどと呼ばれる建物を並べた形の「大和棟」の民家がみられる。
「たかへ造り」について奈良県は早くから文化が栄えた所だけに、その民家も洗練された美しさを見せている。建築家達が「大和棟」とか「大和造り」と呼んでいるのを、土地の人達は「たかへ造り」と呼んでいるが、これは高塀と言う事で大和の民家の大きな特徴です。屋根の勾配にそって、三角形の切り妻を土や漆喰で塗ったのがタカヘで、大棟より低くなっている場合もあったという。その場合はヒズミタカヘと呼んでいる。タカヘが大棟より高く突き出し、煙出しの小屋根の付いた瓦葺の「落ち屋根」が左右もしくは片側に付いた形は美しい。

和歌山県

和歌山県は全県の9割までが山地と言われるだけあって、山また山の連続だった。多くの民家は寄棟造りだが、紀ノ川流域などには入母屋造りも見られたと言う。また南部の山間には、板葺きの屋根が多かったという。瓦屋根の家も勿論多いが、海岸地帯では、それに白漆喰を施したり、棟瓦を針金で止めたりたりして台風に備えている。潮岬付近では、台風の進路に当たることが多いので、石垣を積んだり、マキ、ウバメガシ、ユズ等の防風林を植えた。建物は低く母屋の破風には雨除けの板が張られている。私が和歌山県で人の住む茅葺きの民家と出会ったのは清水町の斜面に建つ老夫婦の住む家だった。「熊野古道」平成16年7月7日に、熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が、世界遺産リストに登録されました。
熊野古道とは、伊勢や大阪・京都と紀伊半島南部にある熊野の地とを結ぶ道のことをいいます。古くは「くまのみち」、「熊野街道」とも呼ばれ、これらのうち保存状況の良い部分が「熊野参詣道」として国の史跡に指定されています。「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「熊野三山」、「吉野・大峯」、「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」、「大峯奥駈道」、「高野山町石道」からなり、三重県・奈良県・和歌山県の合計29市町村にわたって広がっている遺産です。今回の世界遺産登録では、熊野古道が、自然と人との深い関わりのなかで形成された、すぐれた「文化的景観」を持ち、現在まで良好な形で伝えられていることが高く評価されました。

三重県

三重県太郎生、突如として開けた斜面に急勾配の深い屋根の群落が現れるとある。
寄せ棟の屋根は稲藁だそうで、茅の様に厚みはでないとある。棟が発達し、煙出しが入母屋の様に成りかけているとある。どの家も棟押さえが美しく、まず、杉皮を棟にそって敷き、その上に竹を渡して止め、それに直角に杉皮を丸めた物を置いて竹に結び付けてある。棟の一番上には大和風の根付き竹が置いてあります。中には妻飾りと棟の一番上の棒が、木で出来ている物もあります。太郎生の屋根は、勾配も強く破風も大きくが煙出しそのものは小さく、破風口が格子組になったのは、大方、竹を組み合わせてあります。その他、板に水や寿などの字が付いている物もある。大家の下の庇は瓦屋根が多いが杉皮葺き竹で止めている所もある。また切り妻の杉皮葺きの民家もあった。その杉皮葺きが桧皮葺きの様に美しいと言う。周囲には美杉村と言う位、村の背後には杉山と竹林ですから、杉皮と竹は一番手に入りやすい材料なのでしょう。
太郎生を過ぎると、深い藁屋根の家が少なくなり、庇の法が発達して、瓦葺きの箱棟が茅屋根に乗った様な伊賀周辺の民家形式になる。なぜ、このような山間部にこの様に美しい屋根が有るのでしょう?南会津、にしろ山形県田麦俣、五箇山、白川郷の合掌造り近隣の民家とは全く関係なく固有のそして何処にも見られない様な美しい民家形態が、ある限られた地域だけに発達しているのは何か神秘的な気がする。とあります。私も三重県の訪問ではこのコースを散策し同じ様な民家達に出会う事が出来た。

滋賀県

「伊香造り」滋賀県伊香郡や東浅井部を中心に建築学者の間で「伊香造り」と呼ばれる形式の家がある。 入母屋造りだが、妻が正面になって大戸があるのだから、妻入りの民家なのです。妻の頂点を、つまり入母屋のは破風口を萱や藁のツトで鞍形に覆って竹や木の押縁を扇の形に打ち付けている「前垂れ」のが特色です。このあたりの台所は、オマチとかニュウジと呼ばれ、タタキで固めた上にむみがらなんかを積め、その上に筵を敷いてゴザやガマゴザを上敷きにしたのが普通だったと言う。土間からほんのわずか高いだけで仕切りにはブンギと言う角材を入れてあったものが、今ではもう見られなくなっている。
北部の美濃、越前に接する山地も豪雪地で、マキノ町でも富山、新潟県同様に「雪を掘る」との言葉が有ると言う。マキノ町在原では、今も比較的多くの茅葺きの民家が残る。家の周囲を茅束で雪囲いする家が多く、中には一年中したままの家もある。家族の集まる囲炉裏のある部屋を、冬 暖かいと言われる土間住まいにした家もあり、これをニウジと呼んでいる。現在板の間にしてあっても、その下は近年までニウジであった所を板張りにした家もある。風呂場は、一種の蒸し風呂で、広さは6尺3寸「約170cm」でその半分をキンヌラシと呼ぶ浅い湯桶、他の半分を洗い場にし、周囲は土壁で囲い寒冷地ゆえに考え出されたものと言われている。
マキノ町在原も近年、過疎化、高齢化が進み、小学校は廃校になった。他県からの移住者もみられるかが、豪雪地帯、茅葺屋根の民家達の今後の存続は難しい。琵琶湖北岸の大浦、菅浦にも福井県の民家に類似した、間取りの家があった。平入りで手前に台所、庭、馬屋の土間の部分があり、奥に寝間と座敷二つが棟方向に並ぶ。こうして六つの区分からなる家を、「むつまずまい」と言う。座敷一室と馬屋を欠く家を「よつまずまい」と言う。
戻る
inserted by FC2 system