槐婆夢想庵さんが虹の橋を渡る。

もう何年前になるだろうか?HPのハンドルネームの夢想庵が同じだからだろうか?槐婆夢想庵さんから丁寧な相互リンクのメールを頂いた。

文章の終わりに「何々ですぅ」と付け加える独特の槐婆用語が特徴だった。繊細で男の様なさっぱりした気性で私より10歳年上でお姉さんの様な存在で事実、自身の姉より深い交流とお付き合いを頂いてきた。

2007年の1月に宝塚ホテルでの「石絵百個展」女房と楽しみに出かけて行って初体面したのは、2年前なのである。池波正太郎原作の剣客商売の秋山小兵衛屋敷が欲しい!本来、私の性格なら相手にもしないが、何故か?槐婆さんなら作りましょう。どうせ作るなら、年明けの石絵百個展に間に合うように作りましょう。剣客商売のDVDを送って貰い、想像も交えて徹夜で製作した。何とか展示会まで間に合い、還暦の記念すべき石絵百個展に私の作品まで展示していただく事が出来た次第だ。

本当に縁を感じる人で、私の模型が県外の方の手に渡ったのは、槐婆さんが初めてである。

槐婆さんが2008年4月福島県いわき市での夢想庵の「茅葺き模型全国展」には、槐婆の石絵も一緒にコラボしたい!即OK!大阪のメンバー達と悪天候の中、遠路いわきまで訪問頂いた。槐婆さん、マオママ、大阪組メンバー皆さんとの石川屋での懇親会は忘れられない想い出になった。

2008年秋に島根県の散策時にも、宝塚で食事をしようと再三熱心に誘って頂いたが、私は旅行に来ているのではなく散策に来ているので来春に兵庫県散策の予定をたてますので、ご理解下さいとメールをした。こんな事態が解っていれば、あの時〔健康な時〕お逢いしておけば良かったと後悔したが後の祭りだ。

そして2009年が明け1月、アトムさんから兵庫県の民家情報を頂き、4月末の散策の計画をたてていると、2月2日マオママからメールが入る。槐婆夢想庵さんの体調が悪い!どうやら深刻な病気らしい?

それならお見舞いに行きたいとメールすると、元気になったらお逢いしたいと本人が話しているので、今はお見舞いを拒んでいるとの事だった。マオママとも何度もメールのやり取りをした。勿論、槐婆さん本人にもメールを送ったが返信が無い?

槐婆さんについて、初めてのメールを頂いた日から20日が過ぎた。やはり槐婆さんが槐婆さんで居るうちにお見舞いしたいとマオママにメールすると、2月23日の夜、槐婆夢想庵さん本人から自宅に電話が入る!声は確かに槐婆さんだ!一言一言、ゆっくりと、かみ締めるように話してくれた。

意を決したように、4月に三春の滝桜が咲く頃に、ご主人と息子さんマオママと4人で話す事が出来なくても、車椅子に乗ってでも福島に行きたい三春の滝桜を見たい!それを、最後の目標に頑張る!女房にはヴィトンの化粧ケースを貰って欲しい。決して強制強要ではない、形見分けをしたいと話していた。

電話が終わり、マオママのメールをした。さすがの夢想庵その日の夜はまともに寝れなかった。女房は安定剤を飲んで眠りに着いた様だった。メールを読んでマオママも夢想庵さんが来ると言っているのに、高速道路を閉鎖する訳にも、道路で阻止出来る物ではない!と槐婆さんに話してくれて本人も了解してくれて宝塚に向う予定を組んだ。

槐婆さんの片腕でもあり、姉妹の様なマオママは、槐婆さんと家族との中に入ったり、仕事もしたり、槐婆さんを見舞ったり相当にお疲れだったと思う。

2月28日午前12時半、一路宝塚に向かう。常磐道、首都高、東名、名神を走り午前10時過ぎには豊中市の国立刀根山病院に着いた。病院が迷路の様で、結核病棟などを迷いながら病室へ、そこには変わり果てた槐婆さんがいた。

手を握り、「どうしてこんなになってしまったの」後は涙だけで言葉にならなかった。週末には外泊出来るようで、11時には息子さんとご主人が病院に迎えに来た。挨拶をして宝塚ホテルへ。

ロビーでマオママと待ち合わせ、お昼をご一緒して、信じられない様な今までの病気の経過をお聞きした、そして夕方の待ち合わせ場所を確認して別れた。

少し時間があるので何時もHPでお世話に成っている、アトムさんの自宅が宝塚から近いので、民家資料を頂いたお礼にと突然の連絡して訪問した。初めてお会いしたにも関わらず、今まで何度もお会いした様な不思議な気持ちだった。しかしパートナーさんがあまりにも突然で空を飛んできたの?と言った位だった。アトム特製コーヒーをご馳走になり、丁寧にお礼を言って宝塚市に戻り、夕食の会場へ。

病院での様子から、夕食の会場には槐婆さんは来ないだろう?「来れないだろう」と女房と話していたが、会場に行くとテーブルに椅子が6客?私達夫婦、マオママ夫婦、槐婆さんのご主人息子さんで6人。やはりあの状態では来れないよな~?

と女房と話していると、ドアが開き、穏やかな表情で病院の姿とは別人の槐婆さんがニコニコしながら会場に来てくれた。2時間位、皆さんで楽しく会食しただろうか?食事を終え、桜の花の咲く頃、お待ちしています。そして槐婆さんが来られたら5月の連休には、私達が兵庫の散策に来ます。お見舞いはしますが、次回は散策で来ますから、お心使いお気遣いは無用ですよ!とお話して、肩を抱き合ってお別れした。

きっと三春の滝桜の満開の頃にお逢いしましょう。心よりお待ちしています。必ず、福島に来られると信じていた。

翌3月1日、午前5時にホテルを出て、和歌山県かつらぎ町に4度目の訪問。3棟の民家と出逢い、いわきに戻る。帰りは、渋滞に巻き込まれるかと心配したが、中途半端な時間に都内を通過したので、渋滞も無く午後6時半には自宅に到着。充実の2日間だった。

3月10日早朝、メールボックスを開いたらマオママから嬉しい報告が!槐婆さんが今週、退院できる運びとなったとの報告だった。本人が望んだのか?残された時間を家族とマオママと愛犬の大ちゃんと穏やかに過ごして欲しい。来月の来福のためにモリモリ食べて体力をつけてください、お待ちしています。

2009年4月の初め、残念だが、槐婆さんの体調が優れず福島への滝桜見物には来られないとの連絡が入った。本人なりの苦渋の選択だったろう。滝桜の写真をマオママのパソコンに送付した。2月の宝塚へのお見舞い時に約束した通り、ゴールデンウィークの兵庫県散策の時に立ち寄る事にした。途中、女房にマオママにメールをして貰い、今回は民家散策で来ているので、お顔だけ拝見していきます、お気使いの無いようにお願いした。自宅を出発して、和歌山県経由で宝塚市の槐婆さん宅に到着は午後5時頃だった。

マオママが昨日までは、体調が悪かったんですよ、前回もそうだったが、夢想庵さん達が来る日は不思議と槐婆さんの体調が良いと話していた。約二ヶ月振りに、槐婆さんとお逢いしたが、前回、お逢いした時よりも、ふっくらして、見た目は体調も回復している様にみえた。槐婆さんが、まさか、また生きてお逢い出来るとは思わなかったと話していたが久し振りにお元気な槐婆節を聞いた。マオママに春の息吹、タラの芽を渡し、明日にでも体調が良ければ天ぷらにしてやって欲しいと手渡した。帰り際、しっかり握手して神戸市のアトムさん宅経由で三田のホテルに向かった。

後日、検診に病院に行くと、主治医から抗がん剤治療などを薦められる様だが、本人は丁重にお断りしてきた。とマオママがメールをくれた。残りの人生、マオママと美味しい物を食べたり、旅行に行ったりして過ごしたいとの本人の希望の様だが、マオママの本音は「這いつくばっても生きて欲しい!」なのである。

夢想庵ママは、携帯のメールでマオママとのやり取りを、私に何時も報告してくれた。そして9月22日、マオママからメールが来た。

槐婆さんは18日刀根山病院に入院しました16日に往診の先生が来て「痛み止め」を飲みにくい様でしたら、連休もあるので入院か覚悟が・・・と言われて本人も承諾して入院しましたところが主治医が連休で居られず、医療麻薬の使用量がなれない担当医のため少なく18日金曜日は四六時中痛くてベットの上で回転して居たと言う。

たまたま偶然夕方に○○ちゃんから電話があり私の様子がヘンだと思い刀根山病院を覗いてくれましたので、槐婆さんを見て貰って、私が「注射お願いします」と言いに何度か行きました中々処方してくれませんので何度も行くと「家族の許可が・・・」と申しますのでご主人に夜10時に病院まで来てもらいました。

それでようやく痛み止めの量が増えて少し落ち着くかと・・・しかし無理でした私も朝からずっと付きっ切りでしたので午前1時過ぎにいったん帰宅させてもらいましたあくる日からは息子さんが夜は泊り込んでいます。

今日も意識ははっきりしていて私達がしゃべることは全て理解します辛いですが会話が出来ず本人の気持ちが分かってあげられません(涙)担当医はこの連休がヤマだと申します。主治医は連休明けに病院に来られます・・・家族との話し合いで知らせるところは・・・ご主人が知らせていますが、夢想庵さんにはメールですがお知らせいたします。

大阪のメンバーには私の一存で知らせません、なぜならたぶん皆心配して、病院に駆けつけると思いますが『この姿を見せたくないのです』

夢想庵さんも最後まで知らせないでおこうか悩みましたがメールでいつも励ましていただいておりましたので・・・辛いメールでスミマセン取り留めのない文章になっていますが・・・ご理解ください
マオママ

姉妹の様に、そして同志として槐婆さんと人生を共にしてきたマオママの気持ちが痛いほど泣けるほど理解できた。女房と2人、深く落ち込んだ。これから先は「神のみぞ知る」領域に入ったとのメールに言葉も無かった。そして10月5日女房の携帯に、今朝、「槐婆さんが虹の橋を渡った」との連絡が入った。

槐婆さんは、思い残す事は無い。息子の嫁がみたい、孫が見たかったと言ったら限がない。息子の成人した姿も見れたし仕事も引き継ぎが出来たし満足ですと凛として話していた槐婆さん、良い人ほど早く逝ってしまうんですね。喜寿には石絵200個展をする約束だったでしょう。御存知の様に私はこの秋、長野で展示会があります。長野は遠いな~!と言った槐婆さん、私達とはもうお話も出来ない遠くに行ってしまったんですね。今まで描きあげた石絵はどうなるんでしょうかね?私は槐婆さんから頂戴した夢想庵の似顔絵石絵を大切にしますよ。

私達夫婦は、今年2度お元気な槐婆さんを見舞う事ができただけでも、本当に良かったと思ってます。これからは、槐婆さんの妹分のマオママと貴女の生前同様に付き合っていくつもりです。

告別式も終わった、10月8日夜、マオママからメールが入った。

槐婆さんが日蓮の言葉に念願すらく、「人の寿命は無常なり、出る気(いき)は入る気を待つことなし、風の前の露尚譬えにあらず、賢きも愚(はかな)きも、老いたるも若きも、定め無き習いなり、されば先ず臨終の事を習うて後に佗事(たじ)習うべし。」と言ってました。中々そのようなことは凡人には出来ません、少しでも縁を大切にし、感謝しながら自分の言葉で「有難う」と言って逝けることを目標に、今度会ったときにもカッコイイママチャンの後を付いていきたいと思っています。

でもまだまだ娑婆で暮らしますので・・・(笑)涙の絶えない毎日ですが元気にしておりますのでご安心ください。

2009年11月25日マオママからメールが届く。

おはようございます

槐婆夢想庵さんの四十九日も滞りなく済ませて、改めて「居なくなった」事を実感します~

なんだか太陽が沈んだ家庭のようで温かさも明るさも無くなっています。ただただ救いは皆様から頂く感謝のお気持ちで「生前の槐婆夢想庵さんは本当に多くの方から慕われていたんだ」と改めて痛感しました。なんとか満中陰も送っていただくことが出来ましたので一安心です。

今回は安曇野には行かれずに申し訳ございません、石絵を伴っての展示会、このようなお心使いをして頂き、槐婆夢想庵さんも大喜びしていることでしょう。

気持ちが通じることを特に好きでしたから、いつか夢想庵さんご夫妻に会いに参ります。

これから片づけが始まり・・・ます多田さんの遺志に添えるよう頑張ってみます。

マオママ

今朝、早朝ウォーキングをしていると、南こうせつの新曲、「二人のラブソディ」が聞こえてきた、こんな歌詞です。

なぜ、先に行くの私を残して、人は風になんか生まれ変われはしない。 もう一度まぶた開けてやさしく好きと云って、

風 風ゆらゆら涙がハラハラ 野辺の蒼い露のようにあなたが消えてく・・・

ねえ急がないで廻り道がいい・・・・人は桜に酔い想い出紡いでいく  唇 かさね合って遠い日を夢見ていた・・・

風 風ゆらゆら、花びらハラハラ あの歌はもう聞こえない 二人のラプソティー

見えない心よりも言葉で名前呼んで・・・・風 風ゆらゆら涙がハラハラ 

今宵、葡萄酒を飲みましょう この世を笑って

風 風ゆらゆら 花びらハラハラ

今 人生を恨まずに季節が過ぎてく

もう一度、会いたい。

馬鹿な夢想庵、歩きながら、涙が止まらない、川原の石を拾い石絵を描き、桜を愛した槐婆さんがダブってしまった。

槐婆さん、学習能力の無い私は今日まで後悔ばかりの人生です。お疲れ様でした、あなたと出逢った数年間、とても楽しく教えられた日々でした。来世でもまた友達になって下さいね。      

合掌 
     夢想庵
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