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ねぶた「nebuta」ねぷた「neputa」立倭武多「tachi neputa」青森県の夏を代表する祭りだが、準備は寒い時期から始まる。出陣のneputa、凱旋のnebuta、と言われ、弘前のneputaまつりは青森のnebutaまつりに比べておとなしい感がある。それに対して、この所、その存在感を示して来ているのが、五所川原の立倭武多です。 ビルの7階にも相当する、高さ22M,幅6M,重さ約17tと、そのneputaの高さには圧倒される。将来的には、津軽弘前のneputa まつりを追い越しそうな勢いうをみせる。 私の場合、仕事で現地に向かう時が多いが8月の東北は、青森ねぶた、秋田の竿灯、仙台の七夕以外ローカルの祭りを含めると、何処かの町で必ずお祭をしている状態だ。 その夏祭りでも、neputa,nebuta ,tachi neputaは特別です。
アッ!黒石ねぷたも有りました。もう各地方のねぷた小屋では、夏を見据えて、ねぶたの製作に取り掛かっているだろう。五所川原のtachi neputaは立倭武多の館に今年の立倭武多を早々、展示したらしい。

青森ねぶたの「ラッセラー、ラッセラー」弘前ねぷたの「ヤーレ、ヤーレア」黒石ねぷたの「ヤーレ、ヤーレヤー」五所川原、立倭武多の「やってまれ、やってまれ~」地を揺るがす様な掛け声と熱気!是非、東北の夏祭りに御出掛け下さい。青森県のねぷたと言うお祭は有名無名を含めると、各地方で相当な数になるようだ。

祭りの話はこれ位にして、冬の津軽に一番似合うのが、津軽三味線ではないか?吹雪を連想させる強いバチ裁き、初めて生で聞いた時の感動!本当に鳥肌物だった。その昔、目の不自由な方達の生きる道としての津軽の三味線、霊場恐山のイタコ。イタコの話は別として、この津軽の三味線で飯を食える地位まで、芸術の粋まで、津軽の三味線の名を全国に高めたのは、やはり初代、高橋竹山ではないだろうか?

高橋竹山(1910-1998)
明治43年(1910)6月、青森県東津軽郡中平内村(現・平内町)字小湊で生まれる。本名定蔵。幼いころ麻疹をこじらせ半ば失明する。近在のボサマ(戸田重次郎)の内弟子となり三味線と唄を習い、東北から北海道を門付けして歩いた。昭和19年(1944青森県八戸盲唖学校に入学し、針灸・マッサージの免状を取得。戦後は津軽民謡の神様と言われた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、竹山を名乗る。この間、雲竹、竹山の名コンビにより津軽民謡の数々を発表。(りんご節、鰺ヶ沢甚句、十三の砂山、弥三郎節、ワイハ節、津軽願人節等は二人の作による。)昭和39年に独立、独自の芸域を切り開いて津軽三味線の名を全国に広く知らした。昭和50年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞、昭和58年には勲4等瑞宝章を受ける。東京渋谷にあった、「ジァンジァン」でのライブは多くの若者の心を捕らえて、全国に竹山の津軽三味線ブームをわき起こした。全国労音の公演他、ロシア、アメリカ、フランス等、海外公演でも高い評価を受けた。1998年2月5日、全国のファンが惜しむ中、享年87歳の生涯を閉じたが、高橋竹山の哀愁のある魂の音色はいつまでも人々の心の中に響きつづけている「高橋竹山から」

この偉大な先人がいて、」昨今の吉田兄弟達の活躍があるのです。津軽三味線と民謡のライブは弘前駅前の山唄、鍛治町の杏「あんず」 渋谷和生の店「あいや」等でで聞く事が出来る。 竹山の故郷に、津軽三味線を聞きに行きませんか~!夢想庵が民家以外に書ける事。酒、食位かな~?

ストーブ列車、岩木山、地吹雪、サンセット、津軽の雪に津軽三味線、良く似合のよ。 今回は南部地方の八戸三社大祭まつりが出ませんでしたがお許し下さ~い。 この津軽三味線とtachineputaには続きがあります。渋谷和生の事を次回、書きたいと思いますます。全国津軽三味線大会でA級チャンピオンにて、大会初の三連覇を成し遂げるという、実力をもちながら大変謙虚なやさしい人柄の彼と美豚〔ビトン〕について書いてみよう。駅前、大御所のライブハウス山唄の山田千里、鍛治町、杏の多田あつし、1990.5 第二回津軽三味線全日本競技大会A級優勝どの演奏者も素晴しい。
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