夢想庵の生立ちその1

1956年(昭和31年)4月19日福島県いわき市に菅野家の長男として産まれる。 産まれた時の家族構成は、大きい婆ちゃん、お爺さん、寝たきりのお婆さん、両親と3歳年上の姉が一人。 母親は前年にも出産したらしいが、死産(男)だったようだ。もしも、この兄貴がこの世に産まれていれば、今の私の存在は有り得ない。両親の家族計画は子供は2人だった様だ(笑)

清八と言う名前は、農家の八男坊様な名前で、子供の頃は、この名前が嫌いだったが。名前の由来は、大きいお婆さんが、菅野家の実権を握っていて、爺さんが清一、親父が八郎で私の名前が清八となった、実に明快な名前なのです。周囲は前にも書いたように、農家の八男坊の様な名前なので反対も有ったようだが、大きいお婆さんが押し切り、この名前に決定したらしい。

子供の頃は、釘と金槌を持たせておけば、廊下に釘を打って一日遊んでいたらしい。小銭を渡されて、隣のお店に牛乳を買いに行って、大きいお婆さんから牛乳半分貰うのが楽しみだった。

そのお婆さんが私が小学校に入学する春に亡くなった。、枕元で「お婆さん俺が小学校に入学したら、自転車を買ってくれると約束してたのに、どうして死んだ!」と泣いたそうだ。それからお爺さんが大きいお婆さんから頼まれていたんだと、入学と同時に、自転車を買ってくれた。今とは違い当時は自転車と言えば子供用と言えどもかなりの金額だったと思うのだが、回りをみても自転車を持っている子供はごく稀だった様に記憶している。今、想えばえば同級生や回りの子供たちも自転車の乗りたくて群がっていた様に思う。

炭鉱長屋には住んだ事は無いが、すぐ近くには多くの炭鉱長屋があり生協がありお風呂は炭鉱の温泉がかけ流し状態で炭鉱に従事している居ないに区別なくタダで入浴する事が出来た。したがって各家にお風呂は無い。常磐炭鉱が閉山になる頃やっと各家にお風呂が設置される事となるのである。

炭鉱人の家族は贅沢?で小中学校のアルバイトの子供達が「コロッケ~♪メンチ~ク、納豆~♪」と朝から揚げたてのコロッケやメンチカツ、納豆を売り歩く。大抵は、両親が炭鉱に従事していない所の子供たちが炭鉱長屋をメインに売り歩いていたのである。炭鉱人は、陸で働く人に比べ稼ぎも良く明日、落盤で死ぬかもしれないと言う気持ちと食べなければ重労働に耐えられない。したがって食べるものは贅沢だった様に思う。

実際、私のお爺さんの弟は、たった1日炭鉱に従事しただけで、坑内落盤事故で亡くなっている。大きいお婆さんは、息子を返せ!と詰め所に泣きながら、訴えたと聞いた記憶がある。

菅野の家は私が4代目で本家は宮城県白石市だ。白石市内で魚屋をしていた大きいお爺さん(長右衛門)が、知人にあんたの所は、男の息子が7人!も居るし、いわきに行って炭鉱で稼いだら蔵が建つと言われて、白石の田地田畑、店まで売り払い、いわき市内郷の現在の私の住まいの建っている場所に落ち着いた様だ。実際の炭鉱の仕事に従事してみて、長右衛門爺さん曰く炭鉱は地獄だ!白石に帰りたいとお婆さんに話したそうだが、帰るにも帰る場所が無いのでここで頑張るしかないと言われたとか?

小中学までは、野球小僧だった。炭鉱町で寄り合い世帯の様な地域性、炭鉱のピーク時は相当の子供達が学校に通っていたがその悪さも評判だった。自分達の先輩達が修学旅行の時なんか必ず、万引きや喧嘩で警察の厄介になっていた様だ。

そんな少年時代を過ごして来た夢想庵、決して真面目な学生生活をしてきた訳では無い。バイクが好きで、無免許で2回程捕まり、自動2輪の免許を取っても免許が貰えなかった事もある。市内の国道では66キロオーバーで捕まり免停。少年鑑別所で適正診断をして磐梯青年の家での2泊3日の研修会。想い起こせば我が青春は、お巡りさんとの追いかけっこだった。しかし、免停120日が最高で免許の取り消しになった事はない(笑)

そんな夢想庵。まともな高校生活が出来るはずもない。最初の高校は中退(退学では無い)仲間達が出稼ぎで、鹿児島に行っていたので、自分も行きたいと両親に話すと、このバカタレ何を考えているんだ!と親父に一喝され、伯父が務めていた自動車修理の工場へ半ば強制的に務めさせられる。その伯父の下で働きながら、定時制高校に通う事になる。それでも、私が遠回りを経験したお陰で、3人の高校中退者が我が母校を卒業してくれ後輩になった。その一人が私が仲人まで引き受けた鈴木茂男君である。彼とも19歳の頃からの付き合いだが、私と同じ定時制高校、定時制の短大を卒業した。今も一緒に馬鹿をやりながら働いている。 早いもので、私の自動車関係の仕事も模型作りより長い今年35年に成りました。

定時制の編入試験の面接の時に、生意気盛りの私を助けてくれた、担任の松本満正先生の恩は忘れられない。短大時代、街で酒を飲んでいたら、元ボデービルダーの山野辺日出男先生(現在は画家)に清八!お前こんな所で酒を飲んでる場合か!お前を短大に推薦する時、大方の先生方は、どうせ中退するんだから推薦枠を別の生徒に回したほうが良いとの意見が多かったのを、担任を始め応援してくれた先生恩に報いるためにも、真面目にやれと一喝され、それならばと奮起したのは、言うまでもない。 結果、劣等性の自分が短大を卒業し推薦枠一番手の同級生が中退と言う、先生方から言わせると珍現象が起きたのである。

女房とは高校生からの付き合いで、知り合ったときは、准看護婦で私とは正反対の幼少期を過ごした。高校を卒業したら看護学校に行き看護婦を目指していたのだが、俺は夜暇だから短大に行くよ。お前は看護学校に行けば良いと話したが彼女は看護婦に成ると言う夢を捨てて私の監視役として?いわき短大の同級生に成ったのである。それ以来、30年以上未だに女房の監視が続いているのである。若い頃は何処に泊まり連絡などしなくても、小言一つ言われた事は無かったが、ここ数年は体の事を心配してか?必ずどの場所に泊まっているかを、連絡するのが、その日の最後の仕事なのである。 2人の子供も成人し孫の顔も観させて貰った。娘が嫁に行けば、何とか親としての最低限の役割は終わる。もう一頑張りだ。

次回、夢想庵の生立ちⅡをお楽しみに~!
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