陶芸家 ゲルト・クナッパー邸

12月の初旬、所用があり福島県と茨城県と隣接する塙町まで出かけた。出かけついでに、大子町の鈴木邸は稲刈りも終わり一段落しているだろうか?尋ねてみる事にした。自宅のあるいわき市からは85~6㌔1時間半もあれば到着できる。

お邪魔した時には、鈴木さんのお爺さんが、大豆の選別をしておられた。こんにちは、御無沙汰しました。私の顔をみて不思議そうな顔をしていた。以前、お邪魔して写真を撮らせて頂いた者です。今日は所用で塙町まで来たので立寄りました。と話すと、先日も10人位の人達が来て写真を撮っていったよ。人の顔を覚えられない歳になってしまったと笑っていた。

専業農家なのだろうか?農業を取り巻く厳しさを話していた。自分の人生はこの屋根を修理するために働いて来た様な物だとも話されていた。お抱えの茅手さんもいなくなり、これからの屋根の修理は常陸太田の方の茅手に頼むような話だった。棟の取り方、棟仕舞いがこの土地独特で真竹やひしぎ竹を巧に使う、素晴らしい出来栄えだが次回訪問時には、また趣きの違う棟仕舞いに成っているかも知れない。

大子町は、何回か散策しているが、まだ通っていない道や気に成る地域も有るので少し散策してみる事にした。鈴木家から程近い大子町塙、強力な長屋門と母屋が見えてきた!凄い!ななな何だ!あの家は?長屋門、母屋とも茅葺で手入れも行きとどいているし、明かり取りだろうか?養蚕部屋だったのだろうか?2階部分の左右の明かり取りが人間の目を想像させる。 故意だろうか?吸い込まれるように、屋敷を訪問した。入り口には、見学者は電話で予約してから訪問してください。との、コメントを書いた案内板もあったが、外観写真を撮るだけなので、挨拶だけでもしようと、敷地内に入ると、大きな犬が吠えた。すると青い目の外人さんが流暢な日本語で正面の長屋門から入るように支持され、長屋門を通り敷地内に入った。

個人の名刺を出し、ここに来た理由を話して、かやぶきの模型を作っている趣旨のお話をした所、突然の訪問にも拘らず親切に長屋門の左右のギャラリーを見せてくれた。私の勉強不足だが彼がドイツ人陶芸家 ゲルト・クナッパー氏だったのである。

彼は、自分の作品を見に来たのか?と尋ねたが、私の勉強不足でスミマセン!私は現代陶芸はあまり興味だありませんから、先生の事は知りませんでしたと話した。彼の話だと30年以上前、10年近く空き家だった、この地の大庄屋の家と敷地を譲り受ける事が出来、少しづつ自分の感性に合った様に仕上げて来たとの事。どうりで!凡人の夢想庵ではあの奇抜な人の目の様な半円形の窓は発想できない。多層民家や荘内地方のハッポーの様な形になってしまう。

よくも、茨城の茅手さんはこの屋根を葺いてくれましたね~!そう!茅手さんとは凄いやり取りが有ったよ!出来る出来ない、最終的にはゲルトさんが屋根がどうなろうと、責任をとる。あの外人がおかしいから失敗したと言ってくれと言う事で茅手さんを説得したと言う。

何とも、芸術家らしく自分の信念やビジョンを曲げない様だ。日本人では発想できない意匠の様に思える。

再度書くが、ギャラリーと住まいは30年以上前に朽ちかけていた元大庄屋の屋敷を購入し住みなが時間を掛けて修復をして来たのだと話す。ただ,当時このかやぶき屋根のすばらしさに魅せられ、保存すべく役所、学校、等色々な所に協力を持ちかけたそうだが行政も地元の方達にも見向きもされなかったそうである。大子町は閉鎖的だ。だから新しい人達が入ってこない。と話していた。

現在、民家ブームもあり?古民家調査の団体から是非登録をして欲しいとの依頼があるそうですが、「何を今さら」と話していた。

ゲルト氏はまた日本民芸運動にも触れていた。民芸運動とは?

多くの日本人が根強い欧米コンプレックスとアジア蔑視感情に支配されていた時期に、さまざまな文化的価値を無意味にランクづけることなく捉える独自の審美眼を持ち、次々と新しい美を発見し、しかもその美の由来を宗教的深さをもって理論的に解明した。その契機となったのは、W.ホイットマンの思想であり、バーナード・リーチとの交友であったといわれている。 無名の工人の生み出す日常的で健康な美に目を向け、日本の文化的価値を見直す中で、1926年、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を起こし、理論の確立と運動の実践に努める。柳宗悦は、1936(昭和11)年日本民芸館を設立し館長に就任。1931年雑誌「工芸」を創刊、近代化の過程で消滅しつつあった地方の手仕事を保護・育成。生涯にわたる思想と行動は、異文化共存の重要性を示唆するものである。

ドイツ人のゲルト・クナッパー氏に日本人の私が柳宗悦、浜田庄司、河合寛次郎の三氏の話を聞かされた挙句に、彼らの民芸運動が無ければ日本の地に着いた文化は今よりもっと消えていっただろうと言わしめた。一人の日本人として、お恥ずかしい限りである。突然お邪魔して、美味しいお茶とサツマイモ(蒸しいも) を御馳走になり、日本人より深い外人さんとの会話だった。いや、日本人より日本人らしく思えた。世界をまたにかけて活躍する芸術家はどこかオーラが有ったように思う。

ギャラリーで、かやぶきが好きなら、この人知っているか?と、まだ発売されていない柳下征史氏の「ひだまり茅葺き民家」を紹介され、その場で買い求めた。私は前号も持っているが、今回の写真集は前号よりもさらに充実している。柳下さんとは面識や交流は無いが、ここ何号か古民家スタイルで御一緒させて貰っている。さらなる御活躍を願うばかりだ。


今回の散策は、日本古来の茅葺きの民家もお国や習慣、発想の違いでかなり意匠の変化があるものだと感じた。 もしこの文章や写真をみて実物の民家や作品を見たいという方は必ず、事前にゲルト氏の了解を貰ってから訪問するようお願いします。彼からの拙なる要望でした。 私がゲルト・クナッパー邸を訪ねた数日後12月11日に益子焼の人間国宝の島岡達三氏が亡くなられた。クナッパー氏も益子で修行したようだが、名工がまた一人旅立った。

(故)島岡達三氏
東京の組みひも師の家に生まれた。柳宗悦が創設した日本民芸館で陶芸に魅せられ、東京工業大学で窯業を学んだ。陶芸家の浜田庄司に師事し、1953年、益子に窯を築いた。

益子の土と釉薬(ゆうやく)を用い、組みひもを器面に転がして跡を付け、そこに化粧土を埋め込む独自の縄文象嵌(ぞうがん)技法を確立。民芸運動の流れを受け継ぎながら、独自の創意を加えたおおらかで現代的な作風が高く評価された。

アメリカなど海外でも多く個展を開催。1996年、人間国宝に認定された。

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