茅葺民家模型との出会いと全国47都道府県模型完成までのプロセス

1979年の事です。住んでいた賃貸アパートに神棚をお祭りし,事もあろうに素人がお宮作りを始めたのです。そんなに本格的なものでは有りません。ホームセンターから檜材を買い求め、木工ボンドや瞬間接着材を使ってのお宮作りです。そんなこんなしていると、消防署の勤める友人がやってきて、いわき市赤井の深田に茅葺き民家の模型を作っているお爺さんが居るから、お前も習って作ってみないか?と言われました。

当時の私は建築関係の仕事とは全く無関係の仕事をで、[今もそうですが]自動車の修理工として働いておりましたし、一応ちっぽけながら職工としてのプライドもありましたし、上司からも仕事は盗んで覚えろ!技術を盗むのは罪に成らない!と叩き込まれれ育ちました関係上、教えて下さいとは、行けない。と断りました。すると友人は、見せて貰うだけでも良いから行って来い。と言うのです。見せて貰うだけならと、福田高誉さん宅を尋ねました。お爺さんは当時70歳は過ぎていた様に思います。茅葺の模型を見せて貰いお話もしました。

お爺さん曰く、教えてくれ!と言うやつは沢山来たが、がまともに模型を作ったやつは居ない。お前も教えて欲しいのか?イエ自分は見せて貰うだけです。見て作れないのは、聞いても解らないし、解らないものは聞いても解りませんから。と話すと、それなら作って来いや!と言われました。

後日、お爺さんから聞いた話しですが、戦後間もなく、製麺業を始め、雑貨や酒屋の商売を奥さんに任せ、自分は建設業を興し、現在は隠居の身で近所でも有名な頑固爺さんだと自分から話してくれました〔笑〕自宅母屋の隣に工房兼隠居に使用する古民家を自分の実家から譲り受け移築してお婆さんと悠々自適に暮らしてました。

それから、一ヶ月も過ぎた頃でしょうか。 市営住宅のアパートに庇を出した、雨が当たらないだけの、工房とも言えない、作業場を作り初めての民家模型作りが始まったのです。記念すべき第1号の作品が完成しました。嬉しさ半分でお爺さんの所へ持って行き、悪い所や不具合な所があれば、指導して欲しいと話したのです。これには、さすがにお爺さんも驚いた様です。この記念すべき第一号の作品は、私の父親のお兄さんが、茨城県日立市石名坂町で私立幼稚園をしているので、記念に寄付しました。

当時私はまだ25歳の若僧です。指摘を受けたのは、棟仕舞いの仕方でした。その一つの指摘をして貰った事がお爺さんとの師弟関係の始まりでした。それ以降、お爺さんが亡くなるまでの10年間私はお爺さんの前に出ようとは思いませんでしたし出たことも有りません。新聞や報道関係の取材の時も必ず師匠は福田高誉さんと話してきました。お爺さんは事ある事にお前には何も教えていない。一つアドバイスをしただけで、師匠と言って貰って申し訳けないと話してましたが、子が親に箸の持ち方を教えられても、習ったは習ったんですよ。私はお爺さんがいたから、模型を作ろうと思ったんですよ。見せて頂いたのが一番ですと話しました。その後、お爺さんと二人展をする事になり、アトリエ246の館長〔当時NHKいわき放送局勤務〕を含めたお付き合いが始まったのです。私のHPの掲示板に館長のニックネームで書き込みをしてくれるのが、彼です。

1980年頃、山形県秋の田麦俣、米沢周辺の散策、岩手県遠野市の散策、お爺さんを連れて各地を散策したのが、今でも良い思い出です。俺の後継者は夢想庵だと身内や周りの人にも話してくれていた様ですが、お爺さんの死後、息子さんが建設業に失敗し自宅を含め工房,隠居まで銀行に差し押さえされ、あっという間に更地になってしまいました。

茅葺の模型は所在不明になってしまいました。そんなこんなで本当に私が「後継者?」になってしまったのです。お爺さんには私の後にもう一人、茅葺の模型を親切丁寧に教えた方がいました。 その方は器用な方で五円玉で縁起物を作ったり、彫刻等、多趣味な方でした。何回もお爺さんの所に通ったそうです。お爺さんの中では、私との出会いの事をふまえ彼には、親切にしたようです。 しかしその方は教えて貰って、模型を作れるようになったら、マスコミに独学で模型を作った。福田さんなんか知らない。と話したのです。
もう故人ですから S・kさんとだけ書いておきます。私の所にも、プロ,アマを問わず、模型を習いたいと来られる方達がおります。私が必ず話すのは、私が教えればこの25年間思考錯誤しながら完成させてきたノウハウを瞬時の覚えられるんですよ。お爺さんも私も模型を売らなかった様にあなたも売らないと約束できるなら教えましょう。と言います。その人達は食うには、困りませんから売りません!と言います。それ以降の事は、その人を信じるしか有りません。 S・kさんは、作った模型を事もあろうに、たったの10万円で売りさばいたのです。これにはお爺さんも怒り心頭でした。

秋田県由利本荘市岩城町の歴史民族資料館には彼が寄贈した民家模型が有りますが、正直、いわきの代表的な民家とあるだけで、所在、家主も表記されていません。残念ながら想像の民家です。今回、資料館の学芸委員の方はリンク頂いている「秋田の茅葺民家」の五万米さんの写真展に私の民家とS・kさんの作った模型を並べて展示しょうとも考えていたらしいですが、いざ一緒に並べてみると、作品のレベルが違う事に気がついてくれた様です。 やはり、自分が納得するまで時間をかけて一つ一つ、大切に仕上げた作品とは比較にする事が難しい様です。 私の作品はただの、自己満足の世界なのかも知れません。正直、私の作品は10万円では到底売れません。しかし、その方の民家に対する気持ちや思い入れが、私自身に伝われば、お金の事は2の次に成ってしまうかも知れません。

私もお爺さんとの作品の違いを出すためと、師匠を何時か追い越したいと思考錯誤しました。屋根から下の部分は本物〔実物〕と同じく作ればいいのですが、問題は屋根です。お爺さんや商売としている方達や初心者の方達はすぐ手に入りタダ〔無料〕の畳表の切断した部分を畳屋さんから貰って、模型の屋根を葺き上げ模型の屋根としましたが、私には質感に違和感がありました。屋根材は本物の場合、茅〔ススキ〕葦、麦わら、稲藁などを使います。畳のイグサで葺きあげると、葺きあがりが荒く感じられます。

商売として採算を考えると、廃棄物の再利用の様な、畳表の捨てる部分を屋根材に使用する事はコスト面から考えても畳表の端切れは、優等生なのかも知れませんが、葦や茅で葺いた本物の屋根を多く見て来た者にとっては、満足いく屋根材ではないのです。私は時間と手間は比べ物に成らない位の浪費がかかるが、ススキの穂先の種が飛んだ物を刈り取りして使うことにしました。それを会津まで採りに行き模型の屋根を仕上げたのです。それも伸びの良い穂先の真ん中10~15センチほど使い仕上げた茅屋根はそれは、それは、最高の仕上がりでした。それから私の作品はススキの穂を使う事にしました。こんな手間と時間がかかる事をしているのは、日本中探しても私だけではないかと思います〔笑〕

しかし、このススキの穂先を採るのが大変です。大げさに言えば、少し大きめの模型の屋根を葺き上げるには、軽トラ一台分のススキの穂先が必要です。それも、寒の時期の一番寒い時期の刈り取りです。時期を逃せば、色艶が悪くなったり、穂先が痩せすぎたり、ほんの一ヶ月の間に刈り取りしなければ成らないのです。今はありがたい事に、私の親父が暇を見てススキの穂先を採ってくれます。

私が古材を集めたり民家の模型を作り始めた時には、両親も私のしている事が理解出来なかった様でしたが、古材が自宅として蘇り、模型がそれなりの数になり、地元のメディア、報道関係に取り上げられると、親としても「まんざら」悪い気はしないようです。

2008年春には、茅葺き模型展パート3〔全国展〕の開催が決まっております。 全国展ともなれば、最低でも47個の作品の搬入をしなくては成りません。そんなことを考えると、今回で最終回になりそうですが、、、、、思い入れのある作品や、後世に残そうと思う物を作ろうと思えば時間はいくら掛かってもしょうがないのです。こんな民家模型にとりつかれ四半世紀以上、よくも続けたものです。 結局、私の友人は、茅葺きの模型が欲しいがために、私に模型作りをさせたのです〔笑〕勿論、その友人にも1棟プレゼントしました。

仕事柄、東北、北海道を巡回するように営業の仕事をしてきた。冬場はそれは命がけの仕事だ。一つハンドル操作や判断を間違えば大事故になる。しかし、早起きしても、あの茅葺民家に逢いたい。あの民家はこの冬を越しただろうか? 何て考えながらの散策だった。

※私を全国の茅葺民家散策に駆り立てるきっかけは、やはり写真家、小野清春さんとの出逢いだろう。当時彼はサラリーマンの傍ら全国の茅葺の民家をライフワークとして、追いかけていた。定年退職の記念に写真集を自費出版するために。 朝の出勤の車の中でラジオで聞いた。すぐに小野さんの自宅に電話した。彼は出勤した後だったが、奥様から住所を聞き、手紙を書きました。お互い少なくなった、茅葺の民家の情報を交換しましょう。位のことだった様に記憶する。それ以来、小野さんとは今も、心地よいお付き合いが続いている。私は写真や写真技術の事は全く知らない、しかし物事にとり付かれた様にかやぶきの民家達を追いかけた、彼の気持ちは充分過ぎるほど理解できる。そして多くの民家情報も頂いた事に心より感謝する。  

想い起こせば、散策にもドラマはあった。多くの方達の親切にも心打たれ感謝の言葉しかない。冬の八甲田でのスリップの思い出、北海道でのかやぶき民家発見時の喜びと驚き、気仙沼、室根村周辺の装飾性の高い民家を見たときの驚き。弘前市青女子の小山内家の無念の消失。雪のための通行止め。秋田のすす窓の民家、荘内のハッポーのある民家、佐渡の民家、。この8年は、東海近畿、中国、四国九州をメイン散策してきた。うきは市の平川家、愛知県新城市の望月家、鹿児島県肝属郡、二階堂家での河野さんとの出逢いなど、この3軒の民家以外でも素晴らしい方達との出逢いがあった。

今回、はじめて、現地に出向くことなく、高知県本川教育事務所のご好意により頂いた、資料を基に模型を製作したが、2007年5月には、現地、高知県いの町越裏門、山中家に伺おうと計画している。

これからの事ですが、この模型たちは現在、自宅の屋根裏に保管しています。これからこの模型達をどの様に保存していけば良いのか?とてもデリケートな作品達です。私設展示場を作ろうか?とも考えましたが、子や孫に余計な物を残しているのではないだろうか?自問自答したり、考えさせられます。模型を含め夢中で読みあさった民家関係の本も相当の数になりました。民家を撮影した写真〔確認した事は無いが3000軒以上〕や民家関係の資料等を今後どの様に保存して行くかが課題です。人の寿命は解らないが、もう少し生きれる事を仮定して、今後の事を考えていこうと思います。  

今まで応援理解してくれた家族は勿論ですが、このパソコンやHP、旅先で知り合えた方達の親切に心より感謝いたします。

茅葺模型工房
夢想庵
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